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2024年02月06日

「王将」(おうしょう)は、1948年(昭和23年)10月18日公開の映画。製作は大映。94分。監督・脚本、伊藤大輔。主演、阪東妻三郎、水戸光子。北條秀司が1947年(昭和22年)に発表した戯曲『王将』の初の映画化である。将棋棋士坂田三吉の半生を描く。昭和23年度(第3回)芸術祭賞映画部門受賞。伊藤大輔によるシナリオは、映画化前に、雑誌『映画芸術』1948年(昭和23年)5月号に、伊藤自身による執筆の態度・方針を示した『シナリオ・王将の解剖』とともに掲載された。伊藤のシナリオ、同じく阪東妻三郎主演による続編『続・王将』を大映で制作する企画があったが、1949年(昭和24年)の阪東の大映退社で企画中止になった。1952年、(昭和27年)やはり伊藤・阪東による続編『王将一代』を松竹で製作する企画があり、部分的に撮影まで行われたが、阪東の病気により製作中止になった。なお、伊藤の『伊藤大輔シナリオ集』(淡交社)では、その後日活でも企画され、最終的に新東宝で1955年(昭和30年)の『王将一代』となったとある。

物語のあらすじは、

1906年(明治39年)、大阪。通天閣を眺める天王寺の長屋に住む、素人将棋指しの坂田三吉(阪東妻三郎)は、眼病を患いながら将棋に夢中。家業の草履作りも怠り、「天王寺の三やん」のあだなで有名になっていた。東京の棋士との対抗試合大会には、仏壇を質にいれて参加するが、気鋭の棋士・関根七段(滝沢修)との対局に千日手で敗れ、そのくやしさで「玄人の将棋指し」を目指すことにする。帰宅すると、妻の小春(水戸光子)が家出しようとしており、三吉は必死で謝る。朝日新聞主催の将棋大会の案内が三吉にくるが、会費を持たない三吉は、娘・玉江(三條美紀)の一張羅を質に出して出掛け、眼科医の菊岡博士(小杉勇)と知り合う。小春は玉江の服が質にいれられたことを知って絶望的になり、玉江と赤ん坊の息子とをつれて鉄道で自殺をはかった。大会での勝負の半ば、長屋仲間の新やん(三島雅夫)からの連絡に驚いた三吉は、長屋に飛んで帰る。しばらくして、小春親子は、小春の頭の中で鳴り響いた「妙見はんの団扇太鼓」のおかげで、無事戻ってきた。三吉は、きっぽり将棋をやめると誓い、将棋の駒を、新やんのコンロの火中に投じる。小春は三吉の気持ちに心変わりし、どうせやるなら日本一の将棋指しになれと励ますのだった。そして、小春は燃え残っていた王将の駒をみつけ、自分のお守りにする。三吉の眼病はますます悪くなるが、眼科医の菊岡博士が突然訪ねてきて、「あなたに、是非、関西・初の将棋名人になってほしい」と、眼の手術をすすめる。小春が妙見さまに、団扇太鼓を叩きながら祈ったためもあってか、三吉の手術は無事、成功した。後援者のおかげもあり、三吉は職業棋士になり、さらに将棋の修行を行う。それから8年後の1913年(大正2年)6月、七段となった三吉は京都・南禅寺で関根八段と対局する。小春はお題目で坂田を応援し、また、玉江は対局室で手合に立ち会う。苦戦していた三吉は、奇手「二五銀」を放ち、関根を破る。坂田の関係者たちは勝利に喝采するが、玉江一人は喜ばない。玉江は「お父ちゃんの二五銀、あれは、負けを覚悟して苦し紛れのヤマカンで指したやろ」と三吉を問い詰める。怒った三吉も、鏡で自分の姿を見て、最後は玉江の指摘が正しいことを認め、妙見はんにお題目を唱える。それから数年、三吉は関根と戦いを続け、10戦6勝の成績をあげる。1921年(大正10年)には名古屋で対局してさらに勝つ。東京では、坂田を無視して、関根八段を名人におす話がもちあがっていた。坂田を後援していた朝日新聞の学芸部長(斎藤達雄)は、「名人位を争う勝負を行う」か「関西名人をなのる」か、いずれかを選ぶように三吉に迫るが、三吉は「将棋盤と相談する」と答える。弟子・毛利(大友柳太郎)と将棋盤をにらんでいた三吉は、「将棋に王将は2枚あるが、勝ち残るのは1枚だけ。それが名人や。そして、それはワシではない。関根はんだ」と語り、小春たちと天王寺に行こうとする。東京では関根名人の祝賀会が行われている。そこに突然、弟子の毛利と現れた三吉。三吉は関根に祝いの言葉をかけ、関根のおかげでここまでの将棋指しになれたと語る。そして、自ら作った草履を祝いの品として渡す。関根は三吉の態度に感服するのだった。そこに、大阪から坂田あてに電話が入る。それは心臓病の小春が危篤状態と伝える、玉江からの電話だった。三吉は電話機を小春に向けてもらい、「死んだらあかん」とお題目をとなえる。ついに小春が息をひきとった際、玉江は、小春の右手にお守りの王将の駒が握られていたことに気がつく。三吉が、老いた新やんがまだ屋台を引く、天王寺の長屋付近から通天閣を眺めて、映画は終わる。