「マッターホルン/スイス・イタリア」

2022年09月22日

マッターホルン(Matterhorn)は、アルプス山脈に属する標高4,478mの山。イタリア語では「チェルヴィーノ」(Cervino、「鹿の角」の意)、フランス語では「セルヴァン」(Cervin)である。山頂にはスイスとイタリアの国境が通り、麓の町はスイス側にツェルマット、イタリア側にブレイユ・チェルヴィニアがある。マッターホルンという名称は、ドイツ語で牧草地を表す「matt」と、山頂を表す「horn」に由来している。山体はピラミッド型で4つの斜面があり、東壁の落差は1,000 m、北・南・西壁はそれぞれ1,200 m・1,350 m・1,400 mほどである。東壁と北壁がツェルマットから見える。傾斜が激しい斜面では氷雪はわずかに残るのみである。雪は雪崩を起こして滑り落ち、場所によっては氷河を造り出す。マッターホルンの切り立った北壁は、アイガーおよびグランド・ジョラスと合わせ三大北壁と呼ばれる。基部は堆積岩(既存の岩石が風化・侵食されてできた礫・砂・泥、また火山灰や生物遺骸などの粒が、海底・湖底などの水底または地表に堆積し、続成作用【堆積物が固まって堆積岩になる作用。】を受けてできた岩石。)であるが山体は片麻岩(変成岩の中で、片麻状組織を持つ岩石の総称。)で形成されている。パンゲア大陸(ペルム紀から三畳紀にかけて存在した超大陸)が分裂し始めた2億年前にゴンドワナ大陸(プレートテクトニクス【1960年代後半以降に発展した地球科学の学説。地球の表面が、何枚かの固い岩盤(「プレート」と呼ぶ)で構成されており、このプレートが互いに動くことで大陸移動などが引き起こされると説く。従来の大陸移動説・マントル対流説・海洋底拡大説などを基礎として、「プレート」という概念を用いることでさらに体系化した理論で、地球科学において一大転換をもたらした】において、過去に存在したと考えられている超大陸。名前の由来はインド中央北部の地域名で、サンスクリット語で「ゴンド族の森」を意味する。現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸や、アラビア半島、マダガスカル島を含んだ、巨大な大陸である。ゴンドワナ大陸は、今から約2億年ほど前から分裂を始め、中生代白亜紀末(6500万年前)にはアフリカから南米、南極、インド、オーストラリアの各プレートが離れたと考えられている。)のアフリカ部分として残ったアプーリア・プレートが、1億年前に同大陸から分離しヨーロッパ大陸へ移動して乗り上げた、ナッペと言われる地質構造を示す。山容はその後の氷河の作用で形成されたもので、こういった地形は氷食尖峰(氷河の侵食作用によってできた尖った地形のこと。ホルン「角の意」とも言われる。)と呼ばれる。マッターホルンが制覇されたのはアルプスの他の山々と比べれば最近のことである。これは技術的な困難によるものではなく、この山が霊峰であるということを初期の登山家達が恐れたからである。マッターホルン制覇の試みが始まったのは1857年ごろで、多くの登山家はイタリア側から挑戦した。しかしイタリア側の登山路は険しく、多くの登山隊は岩壁を攻略できずに退散した。数回の失敗と民族主義的な中傷を受けつつも、1865年7月、エドワード・ウィンパー、チャールズ・ハドソン、フランシス・ダグラス卿、ダグラス・ハドウのイギリス人パーティはミシェル・クロとタウクヴァルター父子をガイドにして登頂に挑戦して初めてこれに成功、これがアルプス黄金時代の終焉とされる。このとき選んだヘルンリ尾根を通る登山路は他のルートより平易であった。下山中、ハドウの滑落にクロとハドソン、ダグラス卿が巻き込まれ、クライミングロープが何らかの衝撃により切れ4人は1,400 m下に落下して死亡した。発見されなかったダグラス卿を除く3人の遺体はツェルマットの墓地に埋葬された。初登頂から3日後の7月17日、ジャン・アントン・カレル率いる登山隊がイタリア側からの登頂に成功した。1868年(明治元年)にはジュリアス・エリオットが自身2度目の登頂を果たし、同年ジョン・ティンダルは2人のガイドとともにマッターホルン初縦走に成功した。1871年(明治4年)にはルーシー・ウォーカーがライバルのメタ・ブレヴォールに数週間先だって女性初の登頂を成し遂げた。1923年(大正12年)には日本人として麻生武治が初登頂を果たした。

 

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