「ルネ・デカルト /哲学者、数学者」

2022年07月01日

ルネ・デカルト(René Descartes)は、1596年生れのフランスの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。デカルトは1596年に、フランス中西部のアンドル・エ・ロワール県のラ・エーに生まれる。1606年、10歳のとき、イエズス会のラ・フレーシュ学院に入学する。1585年の時点で、イエズス会の学校はフランスに15校出来ており、多くの生徒が在籍していた。その中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したことで有名なラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。イエズス会は反宗教改革・反人文主義の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学を学科目に取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。1610年に、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの知らせに、学院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲学は神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学科目(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類のものも含めて多くの書物を読む。学問の中ではとりわけ数学を好んだ。これに対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。1614年、デカルトは18歳で学院を卒業。その後ポワティエ大学に進み、法学・医学を修める。1616年、デカルト20歳のとき、法学士の学位を受けて卒業。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てる。1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っていて、コペルニクスの支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学の造詣の深さに驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受ける。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。1628年にオランダに移住。その理由は、この国が八十年戦争によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。これは、デカルトの機械論(自然現象に代表される現象一般を、心や精神、意思、霊魂などの概念を用いずに、その部分の決定論的な因果関係のみ、特に因果連鎖のみで、解釈が可能であり、全体の振る舞いの予測も可能、とする立場。)的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633年にガリレオが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念する。1637年、『方法序説』を公刊。1641年、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊。この『省察』には、公刊前にホッブスやガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。1644年、『哲学原理』を公刊。1649年『情念論』を公刊。 1650年2月、デカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発、死去。デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年にフランスのパリ市内のサン・ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、1792年にサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移された。

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